「できない」からこその喜び

ずっと、自分自身に「やるやる詐欺」をしていたことがある。それは、ピアノを弾くことだ。弾けるようになりたい曲があってスコアをとりよせたのだが、一年くらい放置していた。

僕の「やりたいこと」は、だいたい面倒なことだ。おかしな言い方かもしれないが、練習や忍耐が要るものってめんどくさくないですか?フルマラソンを走るにはトレーニングが必要、と言えばわかりやすいか。面倒だから、なにかすこしでも優先度が高いものが現れれば、わすれてしまう。そんな簡単に忘れられることが本当にやりたいことなのかどうかも、そもそも疑問だけど。矛盾しているね。

とにかく、やりたいことである(はずの)ピアノ。年が明けてから、ついに始めた。僕がとっている英語のレッスン(イギリス人の先生のレッスンをとっているのだ)の宿題のエッセイに、「冬休みにピアノを弾きます」とうっかり書いてしまった。書くと「やらなきゃ恥ずかしい」というパワーが働くのかな。それで始めた。

ここの位置の音符、なんの音だっけ…?指つりそう…。電子ピアノの前に座り、四苦八苦しながらやっている。僕はちゃんと先生について習ったことがないので、文字通り自学自習である。スコアを見ながら指を動かすなんてできない。それで、「1回の練習で2小節だけ進む」という作戦を立てて、取り組むことにした。そしてなんとか、イントロだけでも弾けるようになった(ワーワーワー)。

すごく、気分がいい。はっきり言ってへたくそで、効率も悪い。だが、ちょっとずつ、「できない」が「できる」になっていることが楽しい。それで思った。この楽しさって、「できない」ことの特権なのではなかろうかと。

そもそも、人と比較する土俵にも上がれないくらいのできなさ加減だから、「自分なんて」と卑下する余地がない。だから、ちょっとの進歩でも嬉しい。「出来た!」という手触りのある喜びって、ここ最近味わっただろうか?

これがたとえば、中途半端に心得のあることだったら、比較対象やプライドが邪魔をしてなかなかそんなふうに簡単にハッピーになれないんじゃないか。そういう意味では、「できないこと」があるのはラッキーなのではないか、と思うのだ。

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