誘い方、誘われ方

わりと多くの活動において、人が要りますよね。なにかを興そうというときには一緒にやる人が必要だし、だいたいは届ける相手が必要だとも言える。

僕は国際交流に付加価値をつけた「なにか」を作っているわけだけれども、それは届ける相手や一緒に創るスタッフが居るということがいつもセットだ。そこで必要になるのが「誘う」という行為。これについていつも悩むし、それなりに疲れる。

集客を専門とした理論やらセミナーやらが溢れているのは、世の中のありとあらゆるところに、「誘うこと」に悩める人が多いことのあらわれなんだろう。「ラクラク集客して夢が叶う」というような怪しい文句のものも中にはあるが…それっていかがなもんだろうか。

「誘う」立ち位置に身を置いていると、「誘われる」ことが多くなる。そんなわけで、「誘う」「誘われる」について考えることが少なからずある。

誘い方・誘われ方に正解があるのかどうか僕は知らないけど、「とにかく来い」「応援してくれてるはずでしょ」「やってくれないならガッカリだ」と言うのはわりとダメだなあ、と思っている。

お願いですらないし、相手のことを頭数としか見ていないニュアンスが出ちゃっててね。乱暴ではないですか?仲良しならまだしもね。そんなのには絶対に応じようとは思わない。

一方、誘うことはその裏返しだから、自分もそういう風にやってはいまいか、と心配になる。オンラインプログラムに参加してくれ、一緒に作りませんか、ラジオを聞いてくれ、英語のレッスンどうですか…いつもいつもこんなのをやってるから。 誘うときばかりに連絡して、「そのうち俺から人が離れていくのではあるめえか」と思うことも…

人の心をコチョコチョとくするぐような頼み方で来られるとさ、心が動くやんね。興味がなくても「ぜひ行かせてくれ、やらせてくれ」って思えることがある。不思議なんだけど。そういうのが出来るようになりたい。結局、ひとりひとりに誠意とユーモアをもって向き合ってるかどうか、ってところなんだろうなあ。

行ったり参加したりする手間やお金。そして気持ち。そういうものに配慮したうえで、しみじみコツコツやらないと。人に動いてもらおうとするってことは、悩ましいし手間のかかるものなのだ。省エネ的にやってはいけないんじゃないかな。

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